僕が尊敬するのは、昔から喋りが上手い人だけだった
喋りが上手い人が好きだ。
男性女性問わず、僕は昔から、喋りが上手い人が好きだ。
僕が人生で「この人は本当に凄い」と心から尊敬した人はおそらく10人に満たない。
そして、彼らは例外なく喋りが上手い。
鑑みるに、僕は喋りが上手い人しか尊敬できないらしい。
今日はそのことについて考察してみよう。
始まりは、中学時代
喋りが上手い人を尊敬する傾向は中学生くらいの頃から始まったように思う。
小学生の会話などサルに毛が生えた程度だが、中学生くらいになると少しずつ人間らしいジョークや小粋なエピソードを話せるようになるからだろう。
ちょっと意表をついた返しとか、ちょっとした言葉遣いの面白さなんかを楽しめるようになった。
この頃できた友人は、もっぱらこのちょっとした言葉の面白さを味わえる人だ。
自分の中で「面白い言葉」や「面白いやりとり」が着実に蓄積されていくのが気持ちよかった。
理科の高柳先生
そんな中、当時僕が尊敬していた人といえば、理科の高柳先生だ。
彼の授業は大変面白かった。よく工夫されており、出来る限り直感に即した説明や、喩え話を多用し、ややこしい内容も視覚的に伝えてくれた。
後年、僕は塾講師として4年間「理科の先生」をやることになったのだが、頭にあったのはいつもこのT先生だった。彼に負けない授業をしよう、彼の良いところを真似しようと必死だった。
この先生の「話が面白い」という要素に、心から惹かれていたのだろう。
つまらない稲葉くん
同時に、僕は、この頃から「つまらないクラスメイト」の話の面白く無さに辟易していた。
例えば、稲葉くんというクラスメイトがいた。決して悪いやつではなかったのだけど、彼は劇的に頭が悪かった。
当然、彼の話は面白く無い。
僕が仕掛けたちょっとした突っ込みどころは華麗にスルーされるし、彼のエピソードは今ひとつ一貫しておらず、笑いどころがどこなのか分からない。メッセージもない。
僕は、彼の話を適当に聞き流すすべを身につけた。
そして、「僕は彼のことを一生尊敬できないな」と思った。
これは狭量な態度で、人間として正しくないのかもしれない。しかし僕は今でも同じことをしてしまう。
「話が下手である」というその一事で、僕は人を尊敬できなくなる。
だが僕はあまりそのことが悪いとは思っていない。元々「尊敬できるかどうか」なんてひどく主観的で直感的な問題だから、そうやって決めて何が悪い。尊敬する相手くらい、自分勝手に選ばせて欲しい。
尊敬って、女子の言う「生理的に無理」と一緒
結局、尊敬できるかどうかなんて、理屈で決まるものじゃないんだろう。
僕は、喋りが上手い人でないと尊敬できない。もうこれは仕方ない性分として抱えて生きていく。
皆の「尊敬」は、もっと色んな要素が複雑に絡んで決まっているから言語化できないだけで、結局「生理的に無理」みたいなもので、理屈じゃないはずだ。
僕は偶然単純だから言語化できただけで、本質的には皆と変わらない。
胸を張ろう。申し訳ないけど、喋りが下手な人は、僕が「尊敬する人」にリストアップすることはない、おそらく、一生。
はじめまして!
ご挨拶が遅くなりましたが、2ヶ月ほど前に@kenhori2さんのブログを知り、そこからSteemitのことも知れました。
ありがとうございます🙇
パチンコ、スロットの話しかしないくせに、
「俺を敬いなさい」
的なオーラを出してくる、若干ナルシスト気味な元上司を思い出しましたw
今さら関わりたくはないですが、そんな元上司に読ませたい記事です( ´∀`)
お〜!!すごい!そういっていただけると書いたかいがあります!!こちらこそありがとうございます!!
フォローさせて頂いたのでよろしくお願いします〜!
そういう上司いますよねwww
私もちゃっかり、フォローさせて頂いておりましたw
こちらこそ、よろしくお願いします!!
お忙しいかとは思いますが、ブログの更新も楽しみにしてます(^^)
おひさしぶりです。@kenhori2 さんの記事がしばらく読めなくて寂しかったです。ほっとしています。
steemit,存在を忘れてましたww
今後も思い出したときに書いていきます!